井伊直弼は江戸時代末の幕府の大老(政治家)であり、激動の時代で、非常に難しい決断を迫られた人物です。
桜田門の変で暗殺されたことでも有名です。
江戸時代末期、200年以上平和に鎖国を続けていた幕府は一転、日本史上最大の危機を迎えます。
欧米諸国の開国圧力は日本中を動揺させ、現実を受け入れて国是を変えるか、外交の危機を承知で国是を守り続けるか、二者択一の決断を迫られます。
井伊直弼は、米国と日米修好通商条約を結び、国是を変える決断をしました。
変化に伴う混乱を強硬手段で抑え付け、日本の秩序を守ろうと務めました。
その所業から、「赤鬼」とも呼ばれ、「非情な独裁者」として知られています。
一方で、「開国の英雄」の両側面を持ちます。
本記事では、リーダーとしての決断について触れてゆきたいと思います。
井伊直弼とは – その略歴
井伊直弼は彦根藩の藩主の息子でありながら、世継ぎとしても期待されていませんでした。
そのため、激動の時代でなければ、時代の表舞台に上がることは無かったかもしれません。
それが、運命の導きか、様々な偶然と激動の時代の中で、時代の表舞台に立つことになり、歴史に名前を刻むことになったのです。
32歳まで部屋住み
1815年、彦根藩(滋賀県)の第13代藩主である井伊直中の十四男として生を受けます。
井伊直中には実子が多いことから、世継ぎを期待されておらず、直弼は17歳から32歳まで部屋住み(家督を相続できない者)として過ごします。
主に茶道や学問に打ち込む生活を送っていたといわれています。
一転、彦根藩の後継者に
1846年、彦根藩の14代藩主である井伊直亮の養嗣子の直元が死去しました。
直弼は直亮の養子として彦根藩の後継者となります。
その後、1850年に直元も死去したため、直弼が跡継ぎとなり、35歳の時に彦根藩の藩主となりました。
彦根藩主として、彼は先代の遺産を領民に分配するなど、仁政を敷きました。
今でも彦根では名君として讃えられています。
激動の時代の荒波により、幕府の大老に
1853年、ついに、アメリカの黒船が来航し、変化の時代が訪れます。
1857年には、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが徳川家定に謁見し、幕府に対して公使の駐在と通商条約交渉の開始を要求しました。
1858年、江戸幕府は、開国のために孝明天皇からの条約勅許獲得を目指すものの、失敗します。
直弼は、ペリー来航に関して意見を奏上し、開国の問題に携わるようになっていました。
開国の問題に伴い、朝廷との関係の歪みや将軍継嗣者問題など、問題がより複雑化していきます。
直弼は、朝廷との問題を調整し、大局を乗り切れる人物として大老に推挙されます。
直弼は大老として調整に努めますが、結果的に、朝廷からの勅許無しに日米修好通商条約へ調印することになります。
無勅許調印を受け、孝明天皇が水戸藩へ幕政改革を指示する勅書を下賜します。
1859年、幕府は密勅は水戸藩の陰謀とし、密勅に関与した公卿・皇族や水戸藩主等の隠居・謹慎などの処分を行います。
更に、関わった家老や幕臣などの免職・切腹・死罪・遠島などの厳しい処分が行わます。
これは、安政の大獄といわれ、その強権的な手法が反感を買います。
直弼は混乱した政局の安定に努めました。
しかし、1860年、桜田門外の変が起こります。
彼は水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって凶刃に斃れることになります。
井伊直弼のリーダとしての決断

最大の危機に対する決断
井伊直弼が大老に就任したとき、既に、江戸幕府は最大の危機を迎えていました。
アメリカからは日米修好通商条約の調印を要求されており、決裂した場合、アメリカや欧米列強からの武力行使が予想される状況でした。
また、朝廷が条約調印に反対の意志を表明し、幕府内でも支持者が相次ぎました。
国内は分裂寸前の状況でした。
井伊直弼は混乱を収めるため、朝廷への交渉を最後まで試みます。
しかし、朝廷が態度を変えないと判断します。
直弼は条約の調印を決断し、アメリカとの交渉の責任者の岩瀬忠震に対して、調印の許可を与えます。
ここで日本の国是は大きく転換することになります。
もしも、外部から大きな圧力をかけられて、社内も分裂しているとき、あなたが決断者としたら、どのように考えて行動しますか?
外部圧力と社内分裂という環境は、程度の大小はあるものの、現在でも起こりうることです。
非情な決断
朝廷の許可なき条約の調印です。
この国是の大転換は大きな波紋を広げました。
朝廷や、それを支持する尊王攘夷派は将軍の世継ぎ問題などを絡めて幕府と激しく対立します。
幕府への不服従を決め込む者や、外国船への攻撃などが起こり、日本は分裂状態になります。
一歩間違えると外国の植民地ともなりかねない状況でした。
その状況下で、彼は非情な決断を下します。
いわゆる安政の大獄で、100人以上の尊王攘夷派が処刑、投獄されました。
政局は一時的に安定しますが、この弾圧は激しい恨みを買い、翌年には彼は暗殺されます。
幕府の権威も大いに揺るぐことになったのです。
井伊直弼の決断への評価
彼の決断は過酷なもので、自らの命を奪い、幕府滅亡の遠因ともなりました。
一方で、その後の歴史は彼の決断の正しさを証明していると、評価されることがあります。
日米修好通商条約の調印で日本は市場開放を強いられましたが、領土の主権は侵害されませんでした。
また、不平等の代表である関税自主権の喪失についても、税率は欧州諸国とほぼ等しく、輸出、輸入双方で日本は恩恵を被ります。
また、安政の大獄で尊王攘夷派の力が削がれたことで、外国との無秩序な衝突は抑えられ、即座の内戦も回避されました。
その後、日本は大政奉還から戊辰戦争を経て明治維新を迎えますが、領土の主権と国家の秩序を守った日本は、他のアジア諸国に先駆けて近代化への道を歩むことになります。
井伊直弼の格言
井伊直弼の決意や生き様を示す格言を紹介します。
あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな
桜田門外の変の直前、井伊家の菩提寺に収めた短歌です。
彦根城下の琵琶湖の風景に重ねつつ、自身が世のために尽くしてきたことを詠んでいます
(彦根城 井伊大老歌碑解説を参考)
重罪は甘んじて我等一人に受候決意
日米修好通商条約の調印を決定した夜、再考を促した家臣に対しての一言です。
国是を変えてしまった罪は自分1人で被るといった、悲壮な決意を伝えています。

井伊直弼が好んだもの
非情なリーダーとして知られる井伊直弼。
彼が普段、好んだものや手元に置いたものは、どういうものだったのでしょうか。
彼が愛着を持ったものからは、彼の決意や生き様を感じられます。
脇指銘 長曽祢興里入道乕徹
登城する際の殿中差として使用していました。
虎徹は刀としての実用性と美しさを兼ね備えており、彼の政治、文化両方に秀でていた様子を象徴しています。
茶湯一会集
井伊直弼は江戸時代後期を代表する茶人でもありました。
茶道の石州流に新しい一派を設け、その考えをまとめたものが本書です。
巻頭に記された「一期一会」の言葉は非常に有名です。
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井伊直弼を更に知る方法
井伊直弼を更に知る書籍を紹介します。
逆説の日本史19 井伊直弼と尊王攘夷の謎
日本史の書籍であり、江戸幕府と水戸藩の対立から安政の大獄、尊王攘夷の時代が描かれています。

茶湯一会集・閑夜茶話
井伊直弼が茶会に相対する主客の心得を詳しく記した「茶湯一会集」、様々な茶書から学び抄した「閑夜茶話」を掲載されています。

まとめ
日本史上の最大の危機の中で、井伊直弼に課された使命は非常に過酷なものでした。
しかし、彼が決断し責任を取ったことが、日本を破局から救い、後の繁栄への礎になったともいえます。
徳川慶喜も彼の評価として「決断力」を挙げています。
先を見据えたリーダーとしては時に周りに理解されない、非情な決断が必要になることを彼の歴史から学ぶことができます。
参考資料
・彦根城博物館展示
https://hikone-castle-museum.jp/history/naosuke.php
・彦根城博物館『井伊直弼の大老政治について 作られた評価』
http://www.omotesenke.jp/list2/list2-2/list2-2-4/
・Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼
https://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
https://ja.wikipedia.org/wiki/日米修好通商条