井上勝は、明治時代に活躍した人物であり、近代日本の発展に貢献した人物です。
2019年5月、鉄道の世界では、「ある出来事」が話題になりました。
日立製作所製の鉄道車両が、イギリスの鉄道の大動脈である、東海岸本線で運転を開始したのです。
この車両は高速性や快適性に優れ、非常に好評を得ています。
日本はかつて、鉄道建設をイギリスから学びましたが、ついに「恩返し」を果たす形となります。
この偉業は、江戸時代末期にイギリスで鉄道を学び、明治時代に日本の鉄道建設に尽力した井上勝が、誰よりも待ち望んだ姿であった事でしょう。
今回は「鉄道の父」と呼ばれた、この人物、井上勝について取り上げてゆきます。
井上勝とは – その略歴
様々な学問を学ぶ
江戸時代末期の1843年、井上勝は、長州藩(山口県)の藩士である井上勝行の三男として生を受けます。
幼少時に、野村家に養嗣子として出され、藩校で学問を学ぶ中で、蘭学や西洋学に興味を持つようになります。
その後、江戸に行き、蕃書調所や武田斐三郎の塾などを通して、蘭学と英語を学びます。
航海術も取得しました。
イギリスへ留学
井上勝には、外国に対する強い関心を持ちます。
長州藩も、外国のことを重視し始めていました。
21歳の時、伊藤博文や井上馨らの合計5人で、非公式のイギリス留学へと向かいます。
現地ではロンドン大学で、鉱山技術や鉄道技術について学びます。
約3年もの間、様々なことを学び、帰国します。
次々と鉄道を開通
井上勝が帰国した1868年は、江戸時代が終わり、明治時代が始まる時期でした。
帰国した翌年には、新政府の造幣頭兼鉱山正に任ぜられます。
1871年には、鉱山頭兼鉄道頭に就任し、翌年には鉄道頭専任とななります。
「鉄道の父」としての人生を歩み始めます。
1887年には、工部省鉄道局が設置されます。
ここで、局長に就任し、日本人技術者の育成や京都・大津間などの多くの鉄道を開通さえます。
彼は、今日の関西本線や東海道本線、信越本線、東北本線等の鉄道の開通に関わります。
彼の鉄道や鉱山の知識は大いに活かされ、トンネル掘削などの難工事を次々と乗り越え、相次いで開通させます。
鉄道や工業化への貢献
1890年には、鉄道庁長官に就任し、鉄道国有論を主張しました。
しかし、民間鉄道業者の反対が強まり、1893年に鉄道庁長官を辞任します。
1896年、汽車製造合資会社を設立し、工業化の促進に貢献しました。
(この会社は、約80年後の1972年に川崎重工業に吸収されます。)
1907年には、帝国鉄道協会会長に就任します。
1910年8月、ヨーロッパへの鉄道の視察旅行中に持病が悪化します。
視察旅行中のロンドンで、鉄道に捧げた生涯を68歳で終えました。

井上勝の現場視点と、情熱力
現場からの課題把握
井上勝の実績は、彼の「技術に対する深い知識」、「高い現場指揮力」、「判断力」によってもたらされました。
井上勝はスコップを持ったシャツ姿の写真が残っており、その姿は銅像にもなっています。
技術官僚のトップとは思えない姿です。
彼は、技術官僚のトップでありながら、常に現場の課題把握、知識の取得に努めていました。
鉄道の建設を最優先で進める一方、外国から導入していた技術や資材の内製化、現場技術者の教育にも努めました。
人並外れた情熱
井上勝の実績を象徴するものが、日本人のみで初めて建設された「逢坂山トンネルの建設」です。
京都と大津を結ぶこのトンネルは、起伏に富んだ地形であり、工事の難航が予想された区間でした。
井上勝は、自ら総責任者を引き受け、自身の創設した工技生養成所の修了生を責任者に据え、トンネルの掘削には銀山に従事していた坑夫を据えます。
現場では、日々、前代未聞の技術的な課題が起きます。
彼は、それらに取り組む一方で、大変気性が荒かった坑夫の人心掌握にも努めました。
昼夜現場に赴き、寝食を共にするだけではなく、時には、自らつるはしを持つことや、坑夫と相撲を取ることもあったそうです。
その人並外れた情熱に周囲は感心し、現場の士気は大いに高まったといいます。
日本人のみによる工事は2年余を経て無事に終了し、トンネルは旧東海道本線として開通を迎えます。
外国人技術者に払う高額の顧問料を負担せずに済み、コスト面でも大変優れた結果を残しました。
臨機応変に対処する柔軟性
井上勝は、困難に対して臨機応変に対処する柔軟性も持ち合わせていました。
1883年、関東と関西の鉄道を結ぶ路線を計画したとき、彼は経済効果を見込んで中山道沿いのルートを提案します。
しかし、山の多い地域で工事が難航し、難所として有名な碓氷峠(群馬県)付近には、大掛かりな工事が必要と判断しました。
そこで、建設を後回しにして、東海道沿いのルート変更を提言しました。
箱根の山越えに難航したものの工事は順調に進み、1889年には関東と関西の鉄道は連結されます。
碓氷峠の難所も、1892年に全線開通となりました。
結果として東西の連結を3年早め、日本の早期発展に貢献することになりました。

井上勝の格言
井上勝の生涯や思いを示す格言を紹介します。
吾が生涯は鉄道を以て始まり、すでに鉄道を以て老いたり、まさに鉄道を以て死すべきのみ
井上勝はこの言葉通り、日本への鉄道建設にその生涯を捧げました。
今日の日本が誇る鉄道網は、彼の存在なしには語れません。
日本の鉄道の行く末を見守りたい
彼は視察先のロンドンで客死しますが、その遺言として残した言葉です。
その遺言通り、彼は東海道新幹線のすぐ側にある東海寺の大山墓地(東京都品川区)に眠っています。

井上勝が大切にしたもの
井上勝が大切にしたものや関わり深いものはを紹介します。
井上勝の性格や生き様を感じられます。
スコップと作業シャツ姿の写真
井上勝がロンドンに留学した際に撮影した写真です。
鉄道技術者として生きた彼は、この写真を自身の原点として大切にしました。
退官の際は後任に印刷して配ったといいます。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン卒業証書
井上勝がロンドン大学に聴講生として留学した際の終了証書には、「Mr.Nomuran(のむらん)」と記載されていました。
「のむらん」とは一体何でしょうか。
彼は大変な酒豪として有名でした。
そのことから「呑乱(のむらん)」と呼ばれており、その印象が強過ぎたのか、卒業証書の名前まで「のむらん」になっていたそうです。
(以下、PRを含みます)
井上勝を更に知る方法
井上勝を更に知るための書籍や、xxxxを紹介します。
クロカネの道-鉄道の父
様々な困難を乗り越え、鉄道敷設に人生を捧げた井上勝。
その障害を描いた長編小説です。

まとめ
明治維新の直後の日本において、鉄道建設の重要性を認識していた人物は、政府の中には数多くいました。
しかし、実際の現場を深く理解し、多くの人と共に建設を進めることについて、井上勝の右に出る人物は存在しませんでした。
彼と後進の功績により、日本は世界に誇る鉄道大国へと進化を遂げることになります。
数字やデータに基づいた判断が重視される傾向にありますが、実際の現場に目を向けて足を運び、共に汗を流すことも、また大事であるといえるでしょう。
参考資料
- 出世コム『鉄道の父、井上勝 生涯貫いた「技術者魂」』 日経
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO30048990R00C18A5000000/ - 探訪 鉄道遺産『日本の鉄道技術発展の大いなる謎』 JR西日本
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_115/heritage.html - さかい もとみ『愛称は「あずま」、日立製「英国新幹線」の実力』 東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/281831 - 人物事典『井上勝(野村弥吉) 日本の鉄道の父である長州五傑の1人』
https://jpreki.com/inouemasaru/ - テレビのまとめ『鉄道の父・井上勝 プロジェクト成功の知恵|知恵泉』
https://tvmatome.net/archives/11159 - 北山敏和の鉄道いまむかし『井上勝の鉄道創業史』
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/inoue.htm - 山口きらめーる『長州人と鉄道 第1回 日本の鉄道の父・井上勝』 山口県
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/vol333/yamaguchigaku/index.php