高橋是清は江戸時代後期に生まれ、明治時代から昭和時代に活躍した政治家です。
7回も大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任し、日本を数々の危機から救ってきました。
彼は日銀副総裁にもなり、多くの功績を残しています。
・日露戦争で、不可能と思われたイギリスからの資金調達
・1927年の「昭和金融恐慌」でのデフレ脱却
・1929年の「昭和恐慌」でのデフレ脱却「高橋財政」
彼は異色のキャリアの持ち主ですが、幼少期に奴隷に出されたり、投資で騙されたり、職を失ったりと波乱万丈な人生を送っていました。
人生のどん底から這い上がった彼の人生観や性格を、逸話を交えて紹介していきます。
高橋是清とは – その略歴
江戸時代に生まれる
高橋是清は、1854年に幕府御用絵師である川村庄右衛門の子として生まれます。
2歳の時には、仙台藩の足軽である高橋覚治のもとへ養子に出されます。
10歳の頃には横浜の「ヘボン塾」で英語を学びます。
「ヘボン塾」は、アメリカ人医師ヘボンの私塾であり、明治学院やフェリス女学院の源流になります。
また、イギリス人の奉公人としても働きました。
奴隷として売られ、無職にもなる
ヘボン塾で学んだ後、1867年、勝海舟の息子である勝小鹿とアメリカに留学します。
しかし、ホストファミリーに騙され、奴隷契約書にサインしてしまいます。
牧場や葡萄園で奴隷として扱われます。
奴隷となった高橋是清ですが、必死の交渉のもと契約破棄をこぎつけます。
1868年に帰国後、初代文部大臣となる森有礼の薦めにより、英語教師として働きます。
しかし放蕩生活をして、無職になります。
役人になるが、ペルーで投資して無一文になる
それでも英語力を買われて1873年に文部省に入ります。
文部省や農商務省の官僚を務め、1884年に農商務省の外局であった特許局の初代局長に就任しました。
1889年、高橋是清が30代のときに官僚の職を辞して、なんと、ペルーで銀鉱事業を始めます。
しかし、銀鉱は廃坑であったことから投資に失敗し、1892年に無一文で帰国する
日銀副総裁に上り詰める
絶望していたところ日銀に「建築事務主任」として入行します。
翌年には九州を管下とする「西部支店」の初代支店長に登用されます。
そして日銀副総裁となり、1904年からの日露戦争における軍事費の外債募集に成功するなど、活躍をします。
1905年には貴族院議員に勅選され、1911年には日銀総裁に就任します。
何度も大蔵大臣になる
1913年には、山本内閣の大蔵大臣に就任し、立憲政友会に入党します。
1921年に原が暗殺された直後、第20代内閣総理大臣に就任し、立憲政友会の第4代総裁となります。
ただし、高橋内閣は半年で瓦解しましたが、1918年から1922年にかけて、大蔵大臣を務めます。
1925年、加藤内閣のとき、初代農林大臣、初代商工大臣に就任します。
そして政界を引退しますが、1927年には昭和金融恐慌が発生し、田中内閣の大蔵大臣(3度目)に就任します。
1931年には犬養内閣の大蔵大臣(4度目)に就任し、1934年にも岡田内閣の大蔵大臣(6度目)に就任します。
しかし、1936年の「二・二六事件」で、政治に不満を持つ陸軍に襲撃され、人生の幕を閉じます。
高橋是清の行動力や先見性

無理難題でも真正面から立ち向かい、災禍を回避する先見性
高橋是清が実力のある政治家として称賛されるエピソードの一つに、日露戦争時の資金調達が挙げられます。
無理難題を背負ってロンドンへ向かう
当時の日本は戦争のための十分な資金がありませんでした。
日露戦争の戦費は結果として約18億円であり、この額は1904年当時の国家予算額の約9倍でした。
当時、日銀副総裁の高橋は50歳。
外債による1億円の資金調達を任されましたが、それはほとんど望みのない状況でした。
というのも、当時のアメリアは自国の産業発展に外貨を必要としており、日本に協力する余裕はありませんでした。
さらに、横浜正金銀行のロンドン支店からは「ロンドンでは外債募集の見込みはない。今日正金銀行のごときはびた一文の信用もない」という電報が届きます。
それを読んだ高橋は、「釘一本打って見ないで…」と洩らし、イギリスへ向かいます。
ここに、無理難題でも真正面から立ち向かう高橋の行動力が現れていますね。
災禍を回避する先見性
イギリスは日本が戦争に勝つことは信じておらず、取り合ってくれません。
黄色人種に支援することへの抵抗を感じていたともいわれています。
そのため、高橋は毎日のように銀行家達に日本の文化や風習について雑談し、イギリス人の心を開かせました。
その後も、交渉を続けると、関税収入を抵当にすることを条件に0.5億円の外債発行にこぎつけました。
イギリス側は「関税を抵当とする以上、中国に対して同じようにイギリスから日本に人を派遣し税関を管理せねばならない」と主張しましたが、「日本政府はこれまで外債の元金利払いを一厘たりとも怠ったことはない。外債のみならず内国債でも同様である」と突っぱねました。
将来、日本にとって災禍となりそうなことは一切受け付けない先見性の持ち主だったのです。
普通ならばお金を借りている引け目を感じて、受け入れてしまいそうですが、この言葉に彼の信念やプライドが感じ取れます。
その後も彼は丁寧に交渉を重ね、2004年から2007年にわたって計6回、約13億円の外債発行に成功しています。日露戦争の裏の活躍者ともいうべき業績でしょう。
金融恐慌で、不安を解消させる心理作戦力
高橋是清の二つ目の大きな活躍は、立て続けに起こった1927年の「昭和金融恐慌」と1929年の「昭和恐慌」に対するデフレ脱却でした。
ブームのあとの経済恐慌
1918年、第一次世界大戦が終結した後の日本は「大戦ブーム」の反動で、株価の暴落など「戦後恐慌」が起きました。
1923年には関東大震災が発生し、経済はさらに大きな打撃を受けました。
銀行から融資を受けている企業などが決済不可能になりました。
銀行も融資金を回収できず、ダメージを受けてしまいます。
そこに、当時の大蔵大臣であった片岡直温が「東京渡辺銀行が破綻しそうだ」という旨の失言をしたため、銀行にお金を預けていた人々が一斉に押しかけます。
その結果、手持ちの紙幣が底をつき、預金者に支払えない銀行が多発しました。
これが「昭和金融恐慌」と言われています。
前代未聞の名案と心理作戦
「この事態を収束できるのは高橋しかいない」と新たに首相になった田中義一は、高橋に頼み込みます。
当時、高橋はすでに74歳で、2年前に政界を引退していましたが、「3、40日間だけだよ」と言って腹をくくります。
高橋はすべての銀行に支払い猶予令(モラトリアム)を発令し、銀行が預金者に支払う期限を三週間猶予させました。
すべての銀行を3日間休業にし、その3日間で紙幣を大量に刷り、銀行が預金者に支払えるお金を準備します。
ここで紙幣を両面刷っている時間がないと思った高橋は、裏面を印刷しない「裏白紙幣」を発行します。
前代未聞ともいえる名案でした。
高橋是清が優れていた点は、人々の不安を解消させる心理作戦にもありました。
大量に発行された紙幣を全国の銀行のカウンターに積み上げ、支払い能力があるように見せて、人々を安心させたのです。
これによってこれ以上のパニックが起こることなく、「昭和金融恐慌」はたった44日で収束したのでした。
さらなる大恐慌
1929年にも、日本に大恐慌が訪れます。
ニューヨークのウォール街で起きた株価暴落が世界に広まり、世界恐慌に陥ったのです。
輸出が大きく減少し、物価も大暴落、倒産する企業や失業者が相次ぎました。
昭和恐慌では、実質成長率は0.7%へと低下し、消費者物価はマイナス11%も下落しました。
大戦景気時は実質成長率は7.3%であり、1920年代は1.9%でしたので、いかに大きく経済が落ち込んだかがわかります。
金融と経済政策による回復
そんな時に、景気を回復させたのも高橋是清でした。
まずは、円安に誘導し輸出を拡大させました。
また、土木事業を用意し、都市と農村に雇用機会をもたらして失業者を救います。
さらに財源を用意することで金融緩和を行いました。
結果、急速なデフレーションから脱却し、2%の緩やかなインフレになります。
実質経済成長率は7.2%に戻り,株価は70%も上昇しました。
高橋是清の大蔵大臣としての経験と手腕によって、見事日本は世界恐慌から立ち直ることができたのでした。
日本は世界恐慌から最も早く立ち直った国だと言われています。
高橋是清の格言
高橋是清の生き様を示す格言を紹介します。
その授かった仕事は何であろうと、常にそれに満足して一生懸命やるから、衣食は足りるのだ
高橋是清は頼まれた仕事には全力で取り組む人でした。
事実、彼は多くの人から重大な仕事を任されています。
日銀総裁の川田小一郎には日銀を紹介され、入行しました。
初代文部大臣の森有礼には文部省を薦められるなど、人望が厚かったことがうかがえます。
他任に依頼しその助力を仰ぐのは自己の死滅であると、私は信じている。
高橋是清はビジネスにおいては「対等」を重んじる性格でした。
日露戦争の資金を調達する際も、イギリスに「貸してください」と頼むのではなく「日本に貸せば得をする」と交渉したと言われています。

高橋是清が好んだもの
高橋是清が好んだものはどういうものだったのでしょうか。
彼が愛着を持って使用したものからは、彼の性格や生き様を感じられます。
好物:酒
高橋是清は12、3歳の頃から酒を飲んでいたようです。
17歳の頃には酒を飲んで芸者と戯れるなど放蕩生活をしていました。
22歳の時に40人を相手に酒の飲みっぷりで勝負するなど、酒豪だった様子がうかがえます。
尊敬していた人物:第3代日本銀行総裁、川田小一郎
高橋是清は川田小一郎のことを「命の恩人」と述べています。
高橋は一時期、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省)で働いていましたが、ペルーの銀山開発という儲け話に乗せられ、官僚を辞め銀山に投資します。
しかし、その銀山はすでに掘りつくされた後でした。
投資のために借金をしていた高橋は家屋敷を売り払い、無一文になり途方に暮れます。
そんなときに手を差し伸べたのが、当時日本銀行の総裁だった川田小一郎だったのです。
彼のおかげで高橋は日銀に勤め、命を救われたのでした。
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高橋是清を更に知る方法
高橋是清を更に知るための書籍を紹介します。
高橋是清自伝
高橋是清が記した自伝です。
破天荒な生き様について彼自身の言葉で綴られます。

まとめ
高橋是清は、壮絶な過去を持ちながらも、大蔵大臣として日本の危機を幾度となく救ってきました。
アメリカ留学やペルーへの投資、イギリスの銀行との交渉などを見てわかるように、彼は大胆な行動がとれる人物でした。
また、彼の社会の動きを見る目は優れており、「昭和金融恐慌」をたった44日間で収束させたことは評価すべき偉業です。
彼は与えられた仕事に対して真面目に取り組み、どんな時も国のためを思って行動していました。
彼自身「わずかに誇り得るものがあるとすれば、それはいかなる場合に処しても、絶対に自己本位には行動しなかったという一事である。」と語っています。
そんな彼のひたむきさで、多くの人の信頼を得ていたのですね。
参考資料
- Miyajima『「去華就実」と郷土の先覚者たち』
https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka06 - ダイヤモンド編集部『高橋是清が回顧した“命の恩人”日銀総裁・川田小一郎の言葉』 Diamond Online
https://diamond.jp/articles/-/228247 - 日本銀行『第7代総裁:高橋是清(たかはしこれきよ)』
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai07.htm/ - 渡辺利夫『高橋是清の日露戦争』 日本総研
https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/rim/pdf/2718.pdf - 産経ニュース『日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった!』
https://www.sankei.com/premium/news/160612/prm1606120002-n3.html - 帝国書院『戦争別戦費』
https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index06.html - 二村宮國『ジェイコブ・H・シフと日露戦争』
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mnimura19.pdf - #国際派日本人養成講座『人物探訪: 高橋是清 ~ 日露戦争を支えた外債募集』
- http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog291.html
- 岩田規久男『レジーム・チェンジとしての高橋是清の財政金融政策』 金融経済研究
- http://www.jsmeweb.org/ja/journal/pdf/vol.40/full-paper-40jp-iwata.pdf
- WEB歴史街道『昭和金融恐慌と高橋是清の経済政策』 PHP Online
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3816