高田屋嘉兵衛は江戸時代に生きた豪商です。
司馬遼太郎に「江戸時代で最も偉い人」とまで語らせるほど才能のある人物でした。
嘉兵衛はいち早く函館の潜在力に気づき、商売の拠点にまで発展させました。
また、ゴローニン事件をきっかけに、ロシアに捕らえられてしまいますが、たった一か月でロシア語を習得して緊迫していた日露関係を改善したという伝説が残されています。
そんな嘉兵衛の立派な生き様から学べる事はたくさんあります。
・愛国心と責任感
・「対等であること」が信条
・類まれなるコミュニケーション能力
・常に一流たる威厳
本記事では、江戸最大の成功者ともいえる彼の生き方や性格を、逸話を交えて紹介していきます。
高田屋嘉兵衛とは – その略歴
百姓の子が船乗りに
1769年に淡路島の都志本村(兵庫県洲本市五色町)の百姓の長男として生まれます。
嘉兵衛は幼い頃から海に親しみ船を愛していました。
1790年、22歳で兵庫津(神戸港)へ行き、大坂と江戸の間を航海する樽廻船の水主となります。
若干28歳において、当時は国内最大級の船・辰悦丸を入手したといわれています。
函館の土地の利に気づき、商売の拠点にする
嘉兵衛は蝦夷地まで商売を行い、弟の金兵衛を箱館の支配人とします。
彼はいち早く、函館の土地の利に気づいたのです。
そして兵庫の西出町に「諸国物産運漕 高田屋嘉兵衛」の店を置きました。
1799年には、江戸幕府の幕臣(旗本)の近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓します。
翌年には択捉島では17か所の漁場を開きました。
1801年、33歳のときには、択捉航路の発見や開拓の功により、江戸幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられました。
大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、多くの漁場を開拓や蝦夷地経営で財を成します。
ゴローニン事件に巻き込まれる
1811年、ロシアのディアナ号のヴァーシリー・ゴローニン艦長が国後島で拿捕されました。
これは後にゴローニン事件として知られています。
翌年、ディアナ号は高田屋嘉兵衛が乗る観世丸を拿捕し、高田屋嘉兵衛はカムチャツカ半島へ連行されてしまいます。
そんな中、嘉兵衛の働きもあり、翌年にはゴローニンらは開放され、対ロシア関係の悪化が収束しました。
このエピソードは後に詳しく紹介します。
嘉兵衛は事件解決の褒美として幕府から金5両を下賜されています。
1824年には隠居し、灌漑用水工事や、都志港・塩尾港の整備に寄付などを行いました。
高田屋嘉兵衛の商売手法や行動力

信頼関係を築く力
嘉兵衛はゴローニン事件に巻き込まれた立場でありながら、ロシアとの交渉を取り持って、ロシアとの不和を阻止したエピソードが有名です。
当時ロシアは日本に進出しようとしていました。
ロシアの動きを危惧した幕府は、国防対策を急ぎます。
ロシアのゴローニン艦長が水・食料の補給を得ようと上陸したので、ゴローニンを捕らえました。
副艦長のリコルドは報復として、嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカへ連行して抑留します。
もしも、価値観が違う人と対立し、理不尽な目にあったら、どのように対応すればいいでしょうか。
嘉兵衛からは、その対応方法のヒントを得られます。
嘉兵衛は信頼関係を築くことを大切にしていたのです。
彼はロシアの文化と言語を早々に習得することで信頼を勝ち取りました。
また、現地の人をパーティーに招待するなど大盤振る舞いを見せて、当時ケチだと思われていた日本人のイメージを払拭しました。
これらのことで、彼はロシアとの国交を打ち立てたのです。
責任感に溢れた行動
彼の立派な点はそれだけではなく、船頭としての威厳や責任感にあふれた行動にもあります。
嘉兵衛自身はロシアに連行された時のことを、「わたし位の肩書きの人間になると,お前さんが連行すると言ったようには,捕虜となって外国へ行くわけにはいかないのだ。カムチャッカへは自分から行ったのだ」と語ったそうです。
これはロシアと対等に向き合って、威厳を保つためだと考えられます。
また同様の理由で、彼はロシア政府からの補助を受けずに自炊していたと伝えられています。
嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得しました。
リコルドはその言葉を聞き入れ、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴローニン釈放が実現します。
嘉兵衛も日本に解放され、日本とロシアの国交が正常化したのです。
嘉兵衛の格言
嘉兵衛の生き様を示す格言を紹介します。
皆人ぞ
嘉兵衛が口にしていた言葉で、「地位や権力など関係なく、人間はみな対等だ」という精神を表しています。
どんな人にも誠実だったため、アイヌとの貿易やロシアとの国交を通して、多くの人から信頼されていたようです。
只天下のためを存おり候
これは、ゴローニン事件でロシアに連行された後に、嘉兵衛が弟宛に出した手紙の一節です。
手紙には、「捕らえられたとて命が惜しいことはありません。幕府の考えも少しは分かっています。
日本に不利になることは致しません」、「ただ国家のためを思っております」といった旨が書かれていました。
ロシアとの国交は当時鎖国していた日本にとって大問題でした。
商人の立場ながら、国全体を背負う気概と責任感を持っていたのは驚きです。
この言葉に彼の想いと信念が詰まっているように思います。

嘉兵衛が好んだもの
一代で商売人として富を築き上げ、偉業を成し遂げた嘉兵衛。
彼が好んだものはどういうものだったのでしょうか。
彼が愛着を持って使用したものからは、彼の性格や生き様を感じられます。
あちこちに金つぎされた赤楽茶碗
赤楽茶碗は、いつも番茶を飲むのに使っていたようです。
嘉兵衛は商売がさかんとなっても綿服を着て、番茶しか飲まず、一汁一菜の粗衣粗食を生涯通したといわれています。
儲けは船と商品の再投資に回すとともに社会に還元しました。
晩年には故郷で港や道路の修築などをして、世の中のために功績を残しています。
自分の身を削って世の中に施すところや一つの品を使い続けるところにも、嘉兵衛の性格がよく表れていると言えます。
105cmの望遠鏡
105cmの望遠鏡は、当時としては大型で特注品とされています。
船乗りとして初めて建造した船・辰悦丸が当時最大級だったことを考えると、「一流の品で勝負しよう」という気概を感じられます。
普段は粗末な暮らしをしていますが、商売などに関しては一流たる威厳があったのではないでしょうか。
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嘉兵衛を更に知る方法
菜の花の沖
高田屋嘉兵衛の運命を描いた、司馬遼太郎の小説です。
2000年12月にはNHKによってテレビドラマ化されました。

高田屋嘉兵衛―只天下のためを存おり候
大阪大学大学院の教授が執筆した、高田屋嘉兵衛に関する書籍です。
小説よりも、真の高田屋嘉兵衛像に迫ります。

まとめ
ゴローニン事件を巡って、高田屋嘉兵衛の生き方や考え方を見てきました。
彼は、どんな人に対しても対等な立場を保つ考え方を持っていました。
そして、コミュニケーションを通して信頼関係を築く力、自分の行動に対する責任感や威厳など、人間的な強さを持ち合わせている人物だったのです。
参考文献
・歌舞伎素人講釈『大黒屋光太夫のこと~江戸期におけるロシア漂流民』
http://kabukisk.com/dentoh104.htm
・高田屋顕彰館『嘉兵衛物語』
http://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
・nippon.com『【高田屋の松と茶碗】 ライカ北紀行 —函館— 第45回』
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu014045/
・HYOGO ODEKAKE PLUS『豪商・高田屋嘉兵衛の足跡一挙 洲本、PRに本腰』
https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/pickup/201707/10394533
・生田美智子『カムチャッカの高田屋嘉兵衛』 大阪大学
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/8653/slc_36_201.pdf